20.03.01 旧中山道~関ヶ原
3/14(土)に予定している「関ヶ原」企画の下見に出かけた
関ヶ原まで直行では面白くないので
揖斐川「呂久の渡」西側あたりから旧中山道で関ヶ原まで向かう
想定集合場所の「道の駅柳津」
律儀にここを出発する
R21は中山道を元に整備されたのだが、市街地では大きく乖離している
今回の旧中山道の出発地点にて
赤坂宿近くの赤坂港
【ここ】
【ここ】
東に流れる杭瀬川の湾曲部分だったが
相次ぐ氾濫から街を救うため、杭瀬川の直線化により現在は穏やかな川
10:10、ちょっと早いのだが、おなか空いたのでお店イン
味噌カツ定食食べたかったが、ごはんものは11:00からとのこと
(ホントはこの写真の向こう側の天下茶屋を予定していたのだが、日曜休み)
やむなくモーニング(4種あり)
サラダと茶碗蒸しをおかずにする・・・せめて干物とか欲しい
これで840円は割高感
旧中山道に戻り関ヶ原宿
付近は石畳の道で気分高まる
石田三成陣跡、駐車場も広くメイン会場の様相漂う
石田三成の家臣の横柄な態度にへそを曲げ
終戦まで動かず積極的に参加しなかった島津義弘陣跡
後述する大谷吉継へ協力してたら戦局は大きく変わったのかもしんない
合戦で一番頑張った(と全オイラが支持)大谷吉継陣跡
当初は上杉征伐に向かった徳川家康を諌めるため東軍に与した大谷吉継
だが、マブダチの石田三成に説き付され、負けるのを覚悟で三成チームに付く
絶対優位な鶴翼の陣だったが
右翼の小早川のおぼっちゃま始め、滋賀県勢が裏切ったため三成チーム敗北決定する
大谷吉継はこの地で側近の湯浅五助の介錯により自害
吉継は相貌に著しい病変を起こしていたためその首を晒すことを嫌い
五助に「我が首を隠せ」と命じてこの世を去る
五助に「我が首を隠せ」と命じてこの世を去る
しかし、主君の首を隠し終えた頃、敵方の藤堂高虎の甥の藤堂高刑に見つかり
五助は「自分の首を取れ、その代わり主君の首を埋めたことは秘してほしい」と懇願
高刑は五助の首を取り、甥の手柄を喜んだ高虎は家康に意気揚々と報告する
家康は手柄を褒めながらも「吉継の側近の五助なら吉継の居場所も知ってたはず」と詰問
だが、高刑は五助との約束を守り頑なに在処を言わず、自分を処分するよう求める
家康はその姿勢に感心し、自分の槍と刀を与えたと言われている
その後、高虎によって吉継の墓がここに建立された
吉継の墓(右)と、横に五助の子孫によって建立された五助の墓(左)
殺伐とした関ヶ原合戦の中で、特に印象に残るエピソード
吉継も五助も高刑も高虎も家康も、みんなステキだ
もう一箇所関ヶ原関連で寄りたい場所があるのだが、その前に
関ヶ原合戦とは全く関係のない「名神の廃道部分」に寄ってみた
名神高速道路は1965年に一宮と小牧が繋がって全線開通となる
名神高速道路の伊吹PAと関ヶ原ICの間に「今須トンネル」が存在するが
それは開通から14年後のこと
それは開通から14年後のこと
名神開通当初、今須トンネルは無く
↓のような急カーブとなっていた(写真は1975年)
↓のような急カーブとなっていた(写真は1975年)
高速&急カーブゆえ重篤な事故が多発し、現在の今須トンネルが建設される
↓1980年の航空写真・・・今須カーブの形はそのまま
そして現在の今須トンネル上空写真
「彦根117」と記された扁額でそれとわかる
さて、関ヶ原に話は戻り「へそを曲げた島津」のその後
敗戦がほぼ決定的となり、それまで静観していた島津軍
島津軍の大将の義久の命により「敵中突破」の決が下される
300人vs80,000人である(少々盛ってるかも)
大将を逃がすため、薩摩隼人は命を惜しまず「捨て奸」で敵方を食い止め
最終的に80人まで減ったが、大将は無事鹿児島へ戻ることとなる
・・・島津の退き口
その時に駆けた道は「ヒマ中廃村愛好会」に馴染みの深い
五僧峠だったり保月集落だったりする
甥の豊久が大将の陣羽織を拝借し「島津義久(大将)ここにあり!」と囮になって奮闘し
この地で命を落としたと言われる
これで「関ヶ原企画」の下見終了
かなりオイラ個人の趣味で偏りが激しいと思われるので
このまま企画にできるのか不安要素たっぷり
あと、お昼ごはん場所も何とかせねば
・本日の走行距離:156km
・本日の食費:840円(割高感たっぷりのモーニング)
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