10.02.27 枇杷島の「中島」
オイラは毎朝「名鉄犬山線」を利用して通勤している
通勤電車の車窓から気になっている風景があり、この風景を本日の“自主学習”とした
まずは、下小田井を過ぎて名鉄本線と合流する直前
三角形の線路に囲まれた不自然な位置に民家がある
(名鉄本線なら、西枇杷島駅を過ぎたトコ)

「名鉄関係者の自宅」と勝手に想像していたのだが
どうやら2008年7月にTV朝日系「ナニコレ珍百景」で紹介されたいたらしい
この三角形内の民家は名鉄所有の土地ではなく
昭和14年に連絡線(本線でも犬山線でもない北側の線路)が敷設される際
その民家の所有者が「新築から2年だった家を手放したくない」との理由で
立ち退きを拒否したため、一軒の民家が残ってしまったとのこと
(現在の所有者は、別に住まいを構えているので、ここは廃墟)
Wikipediaの「枇杷島分岐点」にも載っている
この不自然な民家の件は、あっさりと解決してしまったのだが
もうひとつ気になる物件がある
電車で名鉄本線と合流して庄内川を渡る途中
名古屋方向へ向かって左側に斜めに交差する“遺構”
杭とかが目視できるので、オイラずっと「橋の残骸」だと思っていた
しかし庄内川に対し直角ではなく、やはり不自然である
(航空写真拡大・・・現在)

前述した「不自然な民家」との位置関係である

昭和21年頃の航空写真ではこうなっている

生活感のある島(中洲?)が確認出来る
さらに、同年頃の地図を見てみる

枇杷島橋がこの島(中洲)で分断されており、生活圏であることがあきらかである
ちなみに大正9年の同位置の地図では

間違いなく生活圏だ
加えて、大正9年・昭和21年どちらの地図にも
現在は存在しない「枇杷島橋駅」が確認できたのも収穫だった
机上の調査を終え、雨予報のためおヒマになった本日
予想に反して空には雲一つない好天気となった
しかし午後からの降水確率が高いので、さっさと出かけることにした
まずは「不自然な民家」を検証

三角形の中へは一応「関係者以外の立ち入り禁止」の看板があったので
深入りはせず、遠くからの撮影を試みた

連絡線は電車の保管場所になっているらしい
そして、島(中洲?)の情報を得るため「清須市庄内川水防センター」に訪れる

書庫に数ある文献の内「にしびの文化財、地名考」を取り出し探してみる
その中にある「美濃路見取絵図(文化4年)」がそれっぽい

写真では見づらいのだが、島(中洲?)には「中島」と地名が付記されている
昭和初期の「字割」にも「中島」の地名が存在するのを確認できた

同資料の中に「中島(なかじま)」に関するページがある

写真では読みにくいので、書き写してみる
★中島
庄内川の河中にある島であることから「中島」の地名が生まれた
「張州府志」に枇杷島大橋、小橋を庄内川に架けるにあたり河中に一島を築くとある
この一島が中島のことであり、人工の島であったことがわかる
しかし、庄内川の中洲を利用してこの中島をつくったことは間違いないであろう
昭和18年庄内川改修工事が開始されたが、戦争のため延期となり
昭和33年庄内川改修工事に伴い、この中島が取り払われた
しかし、その後再び中島のあったあたりに中洲が出来はじめ、面影をとどめかけたが
昭和59年1月から河川改修工事が始まり、再び中洲が取り払われた
この地内にかつては西春日井郡役所があった
(別の資料から、料亭や茶店なども存在したと知る)
「橋の残骸」と思い込んでいたのは
この「中島」に存在した建造物の一部であったことが判明した
名鉄の橋から見た中島の建造物の一部

枇杷島橋からみた「中洲」(向こう側の青い橋が名鉄)

庄内川の湾曲で、自然に形成されたのであろう
現在は鳥の休息地となっている

さて、事前調査で気が付いたのが「枇杷島橋駅」
この駅は昭和24年に廃止されており、現在は分岐点として残っているのだが
痕跡を探してみた
それらしき遺構は何も見当たらなかった

こうして本日の自主学習を終えて帰路に着く
以前にレポートした旧R21に架かる日本最古の歩道橋
淳爺さんから「3月で取り壊しになる」との情報を得たので、撮り納めに寄ってみた

※日本初は大阪駅前の歩道橋だと一般的に言われているが
実はその4年ほど前の昭和34年に、この枇杷島の歩道橋が完成している
参照:日本で最初の歩道橋?歩道橋のはなし
通勤電車の車窓から気になっている風景があり、この風景を本日の“自主学習”とした
まずは、下小田井を過ぎて名鉄本線と合流する直前
三角形の線路に囲まれた不自然な位置に民家がある
(名鉄本線なら、西枇杷島駅を過ぎたトコ)

「名鉄関係者の自宅」と勝手に想像していたのだが
どうやら2008年7月にTV朝日系「ナニコレ珍百景」で紹介されたいたらしい
この三角形内の民家は名鉄所有の土地ではなく
昭和14年に連絡線(本線でも犬山線でもない北側の線路)が敷設される際
その民家の所有者が「新築から2年だった家を手放したくない」との理由で
立ち退きを拒否したため、一軒の民家が残ってしまったとのこと
(現在の所有者は、別に住まいを構えているので、ここは廃墟)
Wikipediaの「枇杷島分岐点」にも載っている
この不自然な民家の件は、あっさりと解決してしまったのだが
もうひとつ気になる物件がある
電車で名鉄本線と合流して庄内川を渡る途中
名古屋方向へ向かって左側に斜めに交差する“遺構”
杭とかが目視できるので、オイラずっと「橋の残骸」だと思っていた
しかし庄内川に対し直角ではなく、やはり不自然である
(航空写真拡大・・・現在)

前述した「不自然な民家」との位置関係である

昭和21年頃の航空写真ではこうなっている

生活感のある島(中洲?)が確認出来る
さらに、同年頃の地図を見てみる

枇杷島橋がこの島(中洲)で分断されており、生活圏であることがあきらかである
ちなみに大正9年の同位置の地図では

間違いなく生活圏だ
加えて、大正9年・昭和21年どちらの地図にも
現在は存在しない「枇杷島橋駅」が確認できたのも収穫だった
机上の調査を終え、雨予報のためおヒマになった本日
予想に反して空には雲一つない好天気となった
しかし午後からの降水確率が高いので、さっさと出かけることにした
まずは「不自然な民家」を検証

三角形の中へは一応「関係者以外の立ち入り禁止」の看板があったので
深入りはせず、遠くからの撮影を試みた

連絡線は電車の保管場所になっているらしい
そして、島(中洲?)の情報を得るため「清須市庄内川水防センター」に訪れる

書庫に数ある文献の内「にしびの文化財、地名考」を取り出し探してみる
その中にある「美濃路見取絵図(文化4年)」がそれっぽい

写真では見づらいのだが、島(中洲?)には「中島」と地名が付記されている
昭和初期の「字割」にも「中島」の地名が存在するのを確認できた

同資料の中に「中島(なかじま)」に関するページがある

写真では読みにくいので、書き写してみる
★中島
庄内川の河中にある島であることから「中島」の地名が生まれた
「張州府志」に枇杷島大橋、小橋を庄内川に架けるにあたり河中に一島を築くとある
この一島が中島のことであり、人工の島であったことがわかる
しかし、庄内川の中洲を利用してこの中島をつくったことは間違いないであろう
昭和18年庄内川改修工事が開始されたが、戦争のため延期となり
昭和33年庄内川改修工事に伴い、この中島が取り払われた
しかし、その後再び中島のあったあたりに中洲が出来はじめ、面影をとどめかけたが
昭和59年1月から河川改修工事が始まり、再び中洲が取り払われた
この地内にかつては西春日井郡役所があった
(別の資料から、料亭や茶店なども存在したと知る)
「橋の残骸」と思い込んでいたのは
この「中島」に存在した建造物の一部であったことが判明した
名鉄の橋から見た中島の建造物の一部

枇杷島橋からみた「中洲」(向こう側の青い橋が名鉄)

庄内川の湾曲で、自然に形成されたのであろう
現在は鳥の休息地となっている

さて、事前調査で気が付いたのが「枇杷島橋駅」
この駅は昭和24年に廃止されており、現在は分岐点として残っているのだが
痕跡を探してみた
それらしき遺構は何も見当たらなかった

こうして本日の自主学習を終えて帰路に着く
以前にレポートした旧R21に架かる日本最古の歩道橋
淳爺さんから「3月で取り壊しになる」との情報を得たので、撮り納めに寄ってみた

※日本初は大阪駅前の歩道橋だと一般的に言われているが
実はその4年ほど前の昭和34年に、この枇杷島の歩道橋が完成している
参照:日本で最初の歩道橋?歩道橋のはなし
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コメント
今は、きっちゃない河~
昨日雨降ったからね~
昨日の雨で庄内川は更に濁ってました
今日参考にした「にしびの文化財、地名考」を読んでいて
他にも興味深い“物件”がいくつもあることに喜びを感じました
枇杷島、すげぇ~
今日参考にした「にしびの文化財、地名考」を読んでいて
他にも興味深い“物件”がいくつもあることに喜びを感じました
枇杷島、すげぇ~
子供の頃から
はじめまして。
新川の中洲に桟橋の杭のようなものがあるのは子供の頃から気になっていました。今から30年近く前のことです。当時、親に聞いても「わからない」と言ってたので、草の生えた中洲に釣り人が勝手に作った桟橋だと思っていました。
(参考→http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/77/ccb-77-15/c13/ccb-77-15_c13_2.jpg)
島があり、家があったと知ったのは、数年前に中日新聞に載ったからです。それほど詳細は書いてなかったですが、長年の疑問が解けてうれしかったです。それにしても、セーヌ川のシテ島とは言いませんが、おもしろい立地を観光化できたのではと、残念に思います。
ちなみに浜名湖にもこんな島があります。
http://www5.ocn.ne.jp/~kojima88/body.html
新川の中洲に桟橋の杭のようなものがあるのは子供の頃から気になっていました。今から30年近く前のことです。当時、親に聞いても「わからない」と言ってたので、草の生えた中洲に釣り人が勝手に作った桟橋だと思っていました。
(参考→http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/77/ccb-77-15/c13/ccb-77-15_c13_2.jpg)
島があり、家があったと知ったのは、数年前に中日新聞に載ったからです。それほど詳細は書いてなかったですが、長年の疑問が解けてうれしかったです。それにしても、セーヌ川のシテ島とは言いませんが、おもしろい立地を観光化できたのではと、残念に思います。
ちなみに浜名湖にもこんな島があります。
http://www5.ocn.ne.jp/~kojima88/body.html
コメントの投稿
当時は、かなり、きれいな河だったらしいです。
交通手段として渡し船が主だったみたいよ。