10.04.10 明治航空基地
今日は“戦跡”にちょこっと興味を持ち始めた中年3人で
安城市に大戦末期に存在した「明治航空基地」に訪れた
お楽しみの“お昼ごはん”も事前の調査済みである
「明治航空基地」の説明・・・現地に建立の記念碑より抜粋
太平洋戦争たけなわの1942年4月、横須賀海軍基地施設部の管理の下、当時の愛知県碧海郡明治村大字東端、根崎、和泉の三集落に挟まれた約200ヘクタールの農地に、海軍の軍用飛行場の建設が始められた。
そして、翌年5月下旬から終戦(1945年8月15日)に至るまで、建設工事と並行して海軍航空隊が航空基地として使用した。
その間、配備航空隊は、訓練部隊として、練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、当時の各種新鋭機(「零戦」「紫電」「月光」「彗星」「天山」「彩雲」等)の使用に慣熟させる為の練成訓練を行なうとともに、1944年12月から翌年4月にかけては、作戦部隊として、主に名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の迎襲や、米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した。
また、1945年1月13日早朝、この地を襲った三河地震(東端の被害、住宅全壊77、同半壊121、死者24、重傷5、軽傷36、等)の際は、近隣町村被災者の救出・救護並びに災害に復旧に当たった。
【明治航空基地配備航空隊名】
1944年5月~7月 第三四五海軍航空隊明治派遣隊
1944年7月~9月 第三四一海軍航空隊明治派遣隊
1944年9月~終戦 第二一〇海軍航空隊
1945年6月~終戦 東海海軍航空隊
机上の調査で各施設の大まかなな配置を把握する
まずは、航空基地の位置図(推定再現)のもの

滑走路はコンクリート舗装を主体として、一部に三和土や芝生が使用されていた
兵舎や格納庫などの一般建築物はすべて木造だったとの事
現在の地図では、このあたりである

上記の「現在地図」の上に、「推定再現図」を最近覚えた「かぶせ」をしてみる

ぴったりだ
次に、滑走路の輪郭を描いてみた

さらに各建築物に目印を付けてみた
目印はしていないが、明祥中学校の敷地は「兵舎」だったことがわかる

◆格納庫
◆飛行隊指揮所
◆中央指揮所
そして「推定再現図」を隠してみた

ちなみに、1948年(終戦から3年経過)の航空写真では

この“目分量配置図”を元に、アラセさんに事前調査を願って
愛車2号機で出かけていただいた

こんなマニアックな呼びかけに応じるのは
アラセさん・EDさん・オイラの“自称”戦跡マニアの3人だ
集合を「デンパーク」として、出発をam9:00とした

当日、出発1時間前にアラセさん、40分前にEDさんが到着
オイラは30分前に到着するつもりでいたのだが、デンパークに着いたのは15分前
「遅い」と叱られた・・・申し訳ございませぬ
アラセさん先導で出発

途中、蜘蛛の巣のように巡らされた滑走路を横断したのだが(たぶん)
残念ながら“だだっ広い”印象だけで、滑走路のあった痕跡はまったく見当たらなかった
地元民の勝手知ったる道で、あっという間に冒頭の記念碑のある公園に到着

この公園は飛行場の西端に位置し、再現図によると指揮所の存在した地である

公園の駐車場にバイクを停め、徒歩で“飛行場”を感じることにした
公園から南へ歩いてすぐに、こんな景色が現れた

“戦跡”が目当てでは無かったら、絶対に見過ごしていただろう
ただの田園風景に見えるのだが、近づいて見ると

異様な建造物である

「燃弾庫」らしい
文字通り「燃料」と「弾薬」を収容する目的で造られたものとみられる
燃料はドラム缶で軍用トラックにより、バイクを停めた公園あたりに集積された後
このような「燃弾庫」へ収納されたのだろう
かなり堅牢な造りで、土地の所有者も持て余しているのだろう

現在は頑丈すぎる倉庫として再利用されている
この「燃弾庫」の南30mほどの所に、煉瓦造りの遺跡が残っているのだが
遂に何であるのかが不明だった

南→東へ向かって歩いていると、今風の一見オシャレな煉瓦造りの建物が見えてくる

事前学習で「格納庫」であることが判明しており
屋根の部分が爆破によって吹き飛んだ模様・・・修復して倉庫に再利用されている
道路を挟んで南側には、側壁も吹き飛んだ「格納庫」が生々しく残されている

我々“にわか戦跡マニア”のテンションは一気に高くなる

3人がそれぞれの価値観で、好き放題に「自説」の推論を吹聴する
・・・・だが、真相は明らかになっていない
とりあえず、集合写真を撮る

これまでのところを、1948年(終戦より3年経過)の航空写真で見てみる

さらに南下し、兵舎だったとされる明詳中学校の北門を確認

元は兵舎の門だったのだろう・・・・たぶん

あても無く中学校の中を横切る

不審者として通報されなかったのは幸運だった
中学校周辺を桜に見とれながら散策
この方向に横断する滑走路があったはず

朝出かける時には肌寒かったが、歩いているうちに暑くなってくる

バイク置き場に戻って長時間の小休止

「燃弾庫」がもう一つあるとのアラセさん情報により
さっそく向かう

何の目的で、こんな土地があるのかよくわからんような場所に
さきほど見たのと同じ仕様の「燃弾庫」が不自然にあった

この土管のような「燃薬庫」には、土がかぶせてあったのだろう

現在は意味も無くその姿がさらけ出されている

内部で先に見た「燃弾庫」と異なるのは
コンクリートの垂直部分は板で生成されているが、アーチ部分は土で型取っている
土で固めた凸にコンクリートをかぶせ、乾いた後に土を取り除いたのだろう

鋳造で見られる工法であり、それほどの“突貫工事”だったことがうかがい知れる
最深部には明かり取り穴も設けられている

お約束の集合写真も忘れない

明治航空基地の余韻を残して今回の自主学習を終える

さんざん歩いたのでお腹が空いてきた
事前調査済みのJR東刈谷駅近くのお店へ向かう

お店の開店時間のam11:30ちょうどに到着
行列にはなっていなかったのだが、ほぼ満席の状態
メニューは“多め”のものが多い

オイラは「ジャンボハンバーグ定食(ごはん大盛り)」で決めてきている
EDさんも同じで、アラセさんは「ヒレかつ定食(ごはん小盛り)」でオーダー
ちょっとした伝達ミスがあり、アラセさんに“ごはん大盛り”が配膳され
「ジャンボハンバーグ定食(ごはん大盛り)」は一つだけEDさんへ配膳された
・・・少々残念
後から来店された他のお客さんの配膳を疎ましく思いながらひたすら待つ・・・
40分ほど経て「ジャンボハンバーグ定食(ごはん大盛り)」が配膳される

見たことの無い“ハンバーグ”である・・・ごはんの盛りは少々期待外れ
デミグラスソースと絡んだハンバーグはとても美味しい
ごはんの量に対し、贅沢なハンバーグの大きさである

他のお客さんは断トツに“えびフライ”が絡んだメニューが人気だ
今度来る時は“えびフライ”関連メニューにしていようと思う
そんな、オーダーする時に復唱確認が必要なお店は
◆店名:キッチンよろずや
◆住所:愛知県刈谷市末広町1丁目17-4
◆定休日:毎週木曜日
◆営業時間:18:00~25:00(土日は+11:30~14:00)
◆お店のサイト

■本日の走行距離:143km
■本日の食費:1,300円+50年(ジャンボハンバーグ定食+ごはん大盛り)
安城市に大戦末期に存在した「明治航空基地」に訪れた
お楽しみの“お昼ごはん”も事前の調査済みである
「明治航空基地」の説明・・・現地に建立の記念碑より抜粋
太平洋戦争たけなわの1942年4月、横須賀海軍基地施設部の管理の下、当時の愛知県碧海郡明治村大字東端、根崎、和泉の三集落に挟まれた約200ヘクタールの農地に、海軍の軍用飛行場の建設が始められた。
そして、翌年5月下旬から終戦(1945年8月15日)に至るまで、建設工事と並行して海軍航空隊が航空基地として使用した。
その間、配備航空隊は、訓練部隊として、練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、当時の各種新鋭機(「零戦」「紫電」「月光」「彗星」「天山」「彩雲」等)の使用に慣熟させる為の練成訓練を行なうとともに、1944年12月から翌年4月にかけては、作戦部隊として、主に名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の迎襲や、米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した。
また、1945年1月13日早朝、この地を襲った三河地震(東端の被害、住宅全壊77、同半壊121、死者24、重傷5、軽傷36、等)の際は、近隣町村被災者の救出・救護並びに災害に復旧に当たった。
【明治航空基地配備航空隊名】
1944年5月~7月 第三四五海軍航空隊明治派遣隊
1944年7月~9月 第三四一海軍航空隊明治派遣隊
1944年9月~終戦 第二一〇海軍航空隊
1945年6月~終戦 東海海軍航空隊
机上の調査で各施設の大まかなな配置を把握する
まずは、航空基地の位置図(推定再現)のもの

滑走路はコンクリート舗装を主体として、一部に三和土や芝生が使用されていた
兵舎や格納庫などの一般建築物はすべて木造だったとの事
現在の地図では、このあたりである

上記の「現在地図」の上に、「推定再現図」を最近覚えた「かぶせ」をしてみる

ぴったりだ
次に、滑走路の輪郭を描いてみた

さらに各建築物に目印を付けてみた
目印はしていないが、明祥中学校の敷地は「兵舎」だったことがわかる

◆格納庫
◆飛行隊指揮所
◆中央指揮所
そして「推定再現図」を隠してみた

ちなみに、1948年(終戦から3年経過)の航空写真では

この“目分量配置図”を元に、アラセさんに事前調査を願って
愛車2号機で出かけていただいた

こんなマニアックな呼びかけに応じるのは
アラセさん・EDさん・オイラの“自称”戦跡マニアの3人だ
集合を「デンパーク」として、出発をam9:00とした

当日、出発1時間前にアラセさん、40分前にEDさんが到着
オイラは30分前に到着するつもりでいたのだが、デンパークに着いたのは15分前
「遅い」と叱られた・・・申し訳ございませぬ
アラセさん先導で出発

途中、蜘蛛の巣のように巡らされた滑走路を横断したのだが(たぶん)
残念ながら“だだっ広い”印象だけで、滑走路のあった痕跡はまったく見当たらなかった
地元民の勝手知ったる道で、あっという間に冒頭の記念碑のある公園に到着

この公園は飛行場の西端に位置し、再現図によると指揮所の存在した地である

公園の駐車場にバイクを停め、徒歩で“飛行場”を感じることにした
公園から南へ歩いてすぐに、こんな景色が現れた

“戦跡”が目当てでは無かったら、絶対に見過ごしていただろう
ただの田園風景に見えるのだが、近づいて見ると

異様な建造物である

「燃弾庫」らしい
文字通り「燃料」と「弾薬」を収容する目的で造られたものとみられる
燃料はドラム缶で軍用トラックにより、バイクを停めた公園あたりに集積された後
このような「燃弾庫」へ収納されたのだろう
かなり堅牢な造りで、土地の所有者も持て余しているのだろう

現在は頑丈すぎる倉庫として再利用されている
この「燃弾庫」の南30mほどの所に、煉瓦造りの遺跡が残っているのだが
遂に何であるのかが不明だった

南→東へ向かって歩いていると、今風の一見オシャレな煉瓦造りの建物が見えてくる

事前学習で「格納庫」であることが判明しており
屋根の部分が爆破によって吹き飛んだ模様・・・修復して倉庫に再利用されている
道路を挟んで南側には、側壁も吹き飛んだ「格納庫」が生々しく残されている

我々“にわか戦跡マニア”のテンションは一気に高くなる

3人がそれぞれの価値観で、好き放題に「自説」の推論を吹聴する
・・・・だが、真相は明らかになっていない
とりあえず、集合写真を撮る

これまでのところを、1948年(終戦より3年経過)の航空写真で見てみる

さらに南下し、兵舎だったとされる明詳中学校の北門を確認

元は兵舎の門だったのだろう・・・・たぶん

あても無く中学校の中を横切る

不審者として通報されなかったのは幸運だった
中学校周辺を桜に見とれながら散策
この方向に横断する滑走路があったはず

朝出かける時には肌寒かったが、歩いているうちに暑くなってくる

バイク置き場に戻って長時間の小休止

「燃弾庫」がもう一つあるとのアラセさん情報により
さっそく向かう

何の目的で、こんな土地があるのかよくわからんような場所に
さきほど見たのと同じ仕様の「燃弾庫」が不自然にあった

この土管のような「燃薬庫」には、土がかぶせてあったのだろう

現在は意味も無くその姿がさらけ出されている

内部で先に見た「燃弾庫」と異なるのは
コンクリートの垂直部分は板で生成されているが、アーチ部分は土で型取っている
土で固めた凸にコンクリートをかぶせ、乾いた後に土を取り除いたのだろう

鋳造で見られる工法であり、それほどの“突貫工事”だったことがうかがい知れる
最深部には明かり取り穴も設けられている

お約束の集合写真も忘れない

明治航空基地の余韻を残して今回の自主学習を終える

さんざん歩いたのでお腹が空いてきた
事前調査済みのJR東刈谷駅近くのお店へ向かう

お店の開店時間のam11:30ちょうどに到着
行列にはなっていなかったのだが、ほぼ満席の状態
メニューは“多め”のものが多い

オイラは「ジャンボハンバーグ定食(ごはん大盛り)」で決めてきている
EDさんも同じで、アラセさんは「ヒレかつ定食(ごはん小盛り)」でオーダー
ちょっとした伝達ミスがあり、アラセさんに“ごはん大盛り”が配膳され
「ジャンボハンバーグ定食(ごはん大盛り)」は一つだけEDさんへ配膳された
・・・少々残念
後から来店された他のお客さんの配膳を疎ましく思いながらひたすら待つ・・・
40分ほど経て「ジャンボハンバーグ定食(ごはん大盛り)」が配膳される

見たことの無い“ハンバーグ”である・・・ごはんの盛りは少々期待外れ
デミグラスソースと絡んだハンバーグはとても美味しい
ごはんの量に対し、贅沢なハンバーグの大きさである

他のお客さんは断トツに“えびフライ”が絡んだメニューが人気だ
今度来る時は“えびフライ”関連メニューにしていようと思う
そんな、オーダーする時に復唱確認が必要なお店は
◆店名:キッチンよろずや
◆住所:愛知県刈谷市末広町1丁目17-4
◆定休日:毎週木曜日
◆営業時間:18:00~25:00(土日は+11:30~14:00)
◆お店のサイト

■本日の走行距離:143km
■本日の食費:1,300円+50年(ジャンボハンバーグ定食+ごはん大盛り)
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コメント
良い天気でした
次は・・・
400年前の戦跡「関ヶ原」っす
資料館にバイク停めて、レンタル自転車で主に【東軍】の陣地をめぐりましょう
資料館にバイク停めて、レンタル自転車で主に【東軍】の陣地をめぐりましょう
格納庫
航空機用の格納庫にしては、造りがおかしいし、広さも足りないし、当時の航空機は最少でも縦横12mは必要だと思います。なんだろ?
ドラム缶
ドラム缶に入れた補給用の燃料の類なのであんなもんだと思ってました
掩体壕は終戦と同時に米軍によって破壊されたらしいです
掩体壕は終戦と同時に米軍によって破壊されたらしいです
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それにも増しての道中記御苦労さまでした。
次は何処へタイムスリップナリヤ??