10.1123 陸軍清洲飛行場・・・復習
まず、「陸軍清洲飛行場」の概要を述べておこう
「陸軍清洲飛行場」は、太平洋戦争末期の昭和19年春
関係地主へ対して否応なしの一方的な宣言により、飛行場の建設が始まった
当時日本における土木技術は低く
ブルドーザー・キャリオールなど重機は、海軍が持ち帰った米軍のものを使用
それでも、地主への一方的な宣言から半年後の昭和19年10月に飛行場は完成する

昭和19年10月13日飛行場開き
開港当初は「二式複戦」が約40機
昭和20年6月に「五式戦」が20機配属となり
同年7月に「二式複戦」は特攻機として引き上げられ終戦を迎える
そんな、一年足らずの飛行場であったが
戦後65年を経た今日でも、大規模な痕跡を見る事が出来る
昭和22年(戦後2年経過)米軍による飛行場の航空撮影

福田川に縁取られた飛行場敷地と、滑走路がくっきり確認できる
同年の地図でも「飛行場跡」として記されている

現在のYahoo地図・・・やはり福田川で縁どられているのが見られる

現在の航空写真

飛行場跡地が不自然に“残されて”いるのが、おわかりいただけるだろう
実際に公共施設以外の建造物は皆無であり
建築基準法より強制力の高い規制が働いているものだと推察できる
で、現在の航空写真に昭和22年のモノを被せてみた(楽しいので・・・)

滑走路を描いてみた

昭和22年のモノを隠してみた

ほら、何となくイメージできるではないか
しかし残念ながら、滑走路の跡は何も残っていないとの事なので
今回は、甚目寺町歴史民族資料館にて事前学習後に
飛行場を周回して、唯一残る「作戦指令室」を検証する事とした
※飛行場の敷地の3/4は甚目寺町に属するが
「甚目寺(じもくじ)」が読みにくいのと、「清洲」の知名度が比較的高い事から
「清洲飛行場」と名付けられたらしい・・・通称は「甚目寺飛行場」たる所以
そんなマニアックな自主学習にでかけたのは
■ぼけさん:TDM900
■EDさん:子バンディット
■GGさん:TW225
■まつ:セロー
am10:00ころ出発として、甚目寺町歴史民族資料館に集合

各自事前学習を行なおうとするのだが
展示物には「飛行場」に関連するものは見当たらない
愛想の良い係員さんに尋ねると、展示物は無いが
前後50周年事業で平成7年に教育委員会が発行した冊子があるとの事
貴重なものを拝見させていただき、数点を写真に収める事が出来た




ちなみにオイラの事前学習の最中、他の3名は「甚目寺の農業今昔」でしきりに感嘆していた
資料館を出て駐車場でダベっていると
先ほどの“冊子”を手にした係員さんが出てこられ「差し上げます」と渡される

感動もんである・・・さらに戦跡マニアに突っ走りそうでこわい
そして、資料館を後にして飛行場を福田川に沿って、左回りに周回してみる


福田川の内外で景色がまったく異なるのは事前期待通りである
周回の途中で、飛行場跡地が「緊急農地防災事業」の区域であることを知る
看板には「農地及び農業用施設等の自然災害の未然防止を目的として実施」とある

65年前の“祖国防衛”が、現在の“安心”につながっている
せっかくだから、今回の調査隊の写真

広大な飛行場跡が望める場所にて振り返ってみる


遠く見える東名阪は、飛行場を北東から南西に“斜め切り”している
広大でしょ?
そして唯一残る“記念品”である「地下作戦司令室」が残る場所に到達

“記念品”の周囲は私有地であるので、抜き足差し足で近づく

この“記念品”の全体図でも存在しないかと資料館で事前学習をしたのだが
残念ながら全容を確認出来るものは皆無だった
かろうじて「作戦室」の文字が見られる写真は下の2点・・・よくわかんない


でも「この穴は・・・」や「このコンクリの厚みは・・・」や「鉄筋の太さが・・・」など
根拠の無い想像力を掻き立てるのに盛りあがった



「地下作戦室」ってくらいなので、この露出部分は一部だと思うのだが
是非、全容が知りたい
せっかくなので集合写真

こうして「陸軍清洲飛行場」の自主学習が終了し
全員の希望により、北名古屋市の「昭和歴史資料館」へ向かうのだが
レポートは次回の楽しみにして欲しい
次回予告レポート
・昭和資料館で“はしゃぐ”中年
・お昼ごはんは“デブそば”
・GG交通博物館
「陸軍清洲飛行場」は、太平洋戦争末期の昭和19年春
関係地主へ対して否応なしの一方的な宣言により、飛行場の建設が始まった
当時日本における土木技術は低く
ブルドーザー・キャリオールなど重機は、海軍が持ち帰った米軍のものを使用
それでも、地主への一方的な宣言から半年後の昭和19年10月に飛行場は完成する

昭和19年10月13日飛行場開き
開港当初は「二式複戦」が約40機
昭和20年6月に「五式戦」が20機配属となり
同年7月に「二式複戦」は特攻機として引き上げられ終戦を迎える
そんな、一年足らずの飛行場であったが
戦後65年を経た今日でも、大規模な痕跡を見る事が出来る
昭和22年(戦後2年経過)米軍による飛行場の航空撮影

福田川に縁取られた飛行場敷地と、滑走路がくっきり確認できる
同年の地図でも「飛行場跡」として記されている

現在のYahoo地図・・・やはり福田川で縁どられているのが見られる

現在の航空写真

飛行場跡地が不自然に“残されて”いるのが、おわかりいただけるだろう
実際に公共施設以外の建造物は皆無であり
建築基準法より強制力の高い規制が働いているものだと推察できる
で、現在の航空写真に昭和22年のモノを被せてみた(楽しいので・・・)

滑走路を描いてみた

昭和22年のモノを隠してみた

ほら、何となくイメージできるではないか
しかし残念ながら、滑走路の跡は何も残っていないとの事なので
今回は、甚目寺町歴史民族資料館にて事前学習後に
飛行場を周回して、唯一残る「作戦指令室」を検証する事とした
※飛行場の敷地の3/4は甚目寺町に属するが
「甚目寺(じもくじ)」が読みにくいのと、「清洲」の知名度が比較的高い事から
「清洲飛行場」と名付けられたらしい・・・通称は「甚目寺飛行場」たる所以
そんなマニアックな自主学習にでかけたのは
■ぼけさん:TDM900
■EDさん:子バンディット
■GGさん:TW225
■まつ:セロー
am10:00ころ出発として、甚目寺町歴史民族資料館に集合

各自事前学習を行なおうとするのだが
展示物には「飛行場」に関連するものは見当たらない
愛想の良い係員さんに尋ねると、展示物は無いが
前後50周年事業で平成7年に教育委員会が発行した冊子があるとの事
貴重なものを拝見させていただき、数点を写真に収める事が出来た




ちなみにオイラの事前学習の最中、他の3名は「甚目寺の農業今昔」でしきりに感嘆していた
資料館を出て駐車場でダベっていると
先ほどの“冊子”を手にした係員さんが出てこられ「差し上げます」と渡される

感動もんである・・・さらに戦跡マニアに突っ走りそうでこわい
そして、資料館を後にして飛行場を福田川に沿って、左回りに周回してみる


福田川の内外で景色がまったく異なるのは事前期待通りである
周回の途中で、飛行場跡地が「緊急農地防災事業」の区域であることを知る
看板には「農地及び農業用施設等の自然災害の未然防止を目的として実施」とある

65年前の“祖国防衛”が、現在の“安心”につながっている
せっかくだから、今回の調査隊の写真

広大な飛行場跡が望める場所にて振り返ってみる


遠く見える東名阪は、飛行場を北東から南西に“斜め切り”している
広大でしょ?
そして唯一残る“記念品”である「地下作戦司令室」が残る場所に到達

“記念品”の周囲は私有地であるので、抜き足差し足で近づく

この“記念品”の全体図でも存在しないかと資料館で事前学習をしたのだが
残念ながら全容を確認出来るものは皆無だった
かろうじて「作戦室」の文字が見られる写真は下の2点・・・よくわかんない


でも「この穴は・・・」や「このコンクリの厚みは・・・」や「鉄筋の太さが・・・」など
根拠の無い想像力を掻き立てるのに盛りあがった



「地下作戦室」ってくらいなので、この露出部分は一部だと思うのだが
是非、全容が知りたい
せっかくなので集合写真

こうして「陸軍清洲飛行場」の自主学習が終了し
全員の希望により、北名古屋市の「昭和歴史資料館」へ向かうのだが
レポートは次回の楽しみにして欲しい
次回予告レポート
・昭和資料館で“はしゃぐ”中年
・お昼ごはんは“デブそば”
・GG交通博物館
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今度は保存状態の良さそうな天理の「大和海軍航空隊」に行きませんか?
「彷徨猫旅記録」を見ていたら検証したくなりました。
ひよっとすると何か解るかも?